決別
数日前、嫁さんに
「松重さんと向井君の動画観た?」
と言われた。
俳優の松重豊さんがミュージシャンを招き朗読する動画なのだが、向井秀徳氏が招かれギターを演奏する回だ。
俺はその動画が公開された直後に途中まで観ていたので
「ああチラッと観たよ。いい雰囲気だったな」と言った。
嫁さんは
「最後まで観てないの?後半が物凄く良くて私連続で3回くらい観てしまったよ」
と言った。
暫くした休みの朝、俺は何となくそのやりとりを思い出し動画を観た。
兎に角素晴らしかった。
映像の撮り方がとかギターで弾いてる曲が何やらとか、そんなもんはどうでも良く、
ただただその語られる言葉、声、内容、流れるギターの音、その場所の空気の音、全てが一体化してこれをジャンルに区切るのならば何と言おうか、音楽付きの朗読でもなく、映像作品でもなく、名前の付けようのない何かだった。
何かの塊が風景を生んだ。
俺の感情は激しく揺さぶられ良い映画を観た後のように何日も何日もそれらのシーンや言葉がフラッシュバックしてくるのだ。
その中で語られた物語の風景すらフラッシュバックしてくる。自分の経験のように。
それらを経て俺は己の表現とは一体何なんだろうかと劣等感のようなもんを感じた。
俺は何をやっているんだ。
己の魂を揺らす出来事ってのは毎日の中に混ざり込んでいて、それらをスルーしているのではないか、何か重要な事を見逃しているのではないかと思った。
その出来事を歌詞にして歌うことが表現であると思っていたのに、魂を揺らす出来事について記録すらせず、いや、記録するまでもそのような出来事は脳みそにべったりとトラウマのように張り付いているべきなのに
その輪郭をうっすらと思い出すだけでその出来事たちをはっきりと音楽や詩にできていない
それはとても悲しい事だった。
己が恥ずかしくもなった。
俺は何をやっているんだ。
やりたい事がある。それをやる為に日々働く。
もちろん家族の生活の為にも働く。
魂が揺れた感動を言いたい。誰かにわかってもらいたい。
俺こんな事があってこんな事を思ったんだよ。
そして歌ったらこうなったよ聴いてよ。
そんなシンプルな事をシンプルにやらずに、煩悩の快楽に浸りきっておった。
俺はそんな煩悩、まあ単刀直入に言えば競馬なんだが、競馬と決別する事を考えた。
考え出したら今すぐそれをやらなければいけないような気持ちになった。
タバコとの決別は失敗した。
今回はすぐに取り掛からなければ何かが死んでしまうような気持ちにさえなった。
アイパットとグリーンチャンネルを解約した。
話が脱線した。戻す。
今回松重さんと向井君の動画を何回も観て都度感動して言いたかった事は
素晴らしい物事を途中で観るのを辞めていた、スルーしそうになっていた自分が悲しかったって事だ。
冒頭の雰囲気で気づけよ。何を嫁さんに言われて気付いてるんだよ。
何ボケっとしてんだよ。
自分が嫌になったってお話。
旅はまだまだ続く。