我が骨はターフに埋めよ
ほんものの自己に立ちかえることは、人間の自己というものの完全性をひきうけることである。
そこには、わたしたちが隠したがる暗い側面もふくまれているかもしれない。
人間は善なるものに惹かれる存在だとおもわれがちだが、じっさいに惹かれているのは善でも悪でもなく真正なもの、ほんものなのだ。
その証拠として、わたしたちは余分な飾りをつけて真の自己を隠している人よりも、偽りのない人に好意をいだく。
〜エリザベス・キューブラー・ロス著「ライフレッスン」より抜粋〜
音楽を含める何らかの表現をする時、最も大事な事は他人の目などを気にせず純粋に湧き出たその人の表現をする事だ。
それを見せられた時、俺の心は激しく揺さぶられるのである。
手法は問わない。
純粋な表現はそれが人の気分を害する類のものであっても(例えばそれを見た時にものすごく腹がたったや、ものすごく悲しくなったなど)良いと思っている。
圧倒的なものを見て激しく動揺する事が生きている実感だと俺は思っている。
日々の生活の中でそれらに偶然出会う事もあるし、映画やライブなど「体験」するべくその現場に足を運ぶこともある。
金を払えば必ず出会えるというものでもなく、重要な事はタイミング云々含め、引っかかった事はなるべくスルーせず積極的にそれを体験するべく足を運ぶ、参加する、観る、聴くをする事だと思っている。
日々の暮らしの中にはこうした「引っかかる事」ってのが潜んでいる。
ぼけっとして見過ごす事が己にとって最大の損であり、引っかかってそれらに触れて心がガクガクと奮い立つ事が最大の得であると思っている。
得を積む=徳を積むである。
さて、これは俺が競馬との決別をいとも簡単に撤回した言い訳をしたく書いとる訳ではない。
俺はこんな人間なんすよってな類の自己紹介かもしれない。
昨日は正しいと思っていた事が今日は間違っていると思うようになったり、
辞めると言ったと思ったらあっけなく再開したり、
人の影響をすぐ受けたりと、俺という人間は全く実態をつかむ事ができないなと日々思って来た。
自分で自分を説明する事は困難だがこの困難な何とも矛盾した複雑な人格が俺なのだと最近になってようやくわかって来た。
そしてその実態を掴めない俺が心が震える出来事やら何やらを経てそれらを歌詞にしてメロディーつけて歌っとるって事が何とも愛おしく思えて来た。
これはなんかオレオレ俺最高的な感じに聞こえるかもしれんが、俺はやっと45歳にして俺を許す事ができたのだと思っている。
俺のつくる曲は俺にしかできん。
人がつくる曲は人にしかできん。
自分のヘボさを受け入れて認めてやったらこの曲達が何とも尊く儚いもんやなあと思えて来たのだ。
こうする事が正しいって事を俺は馬券で学んだと思っている。
話が急ですな。
馬券ってのは馬柱(出走する馬達の過去の成績、人気、血統、調教の状態が集約された表)をみて予想するのだが、馬券プレイヤーはそれぞれ予想のスタイルってのを持っている。
過去の競走成績が一番わかりやすいが、過去に良い走りをするからと言って今回良いかというとそう単純ではない。
俺も色々な要素を取り入れ予想するのだが(競馬については別の記事でゆっくり語ろう)、俺が一着になると予想した馬の人気が無い事が多い。
人気っちゅうのはマジョリティ指数である。
いよいよ馬券を買うってな時にこの人気ってのが邪魔をする。
俺の指名したこの馬はこんなに人気が無いが果たして本当に指名して良いのだろうか
この心境になり指名馬を人気のある方にチェンジし何百回馬券を外しただろうか。
過去の快進のヒット馬券はこのマジョリティ指数に殺られる事なく、自分の予想を信じた際に発生するのだ。
これは先に書いた事と見事にリンクしている。
自分を信じた者だけが馬券をとる事ができ、表現活動も人々の心を揺らす事ができるのだ。
これが書きたかった。
これが書きたかった。
俺は今、ミュージシャンとして競馬プレイヤーとして、とてもリラックスしているのである。
※因みに本日の歴史的なジャパンカップはトリガミ(馬券は当たったが収支はマイナス)だったが、とても清々しい。
完
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